明治22年(1889)の町村制実施に伴い、水取小学校、継善校(天王)、打田小学校(明治7年開校)の三校を合併し、普賢寺小学校とした。そして、継善校、打田小学校は、その分校となった。明治25年には、普賢寺第一尋常小学校(水取)、普賢寺第二尋常小学校(天王)、普賢寺第三尋常小学校(打田)としてふたたび三校の小学校が設立された。明治28年3月には、第二尋常小学校は、第一尋常小学校天王分教場となり、第三尋常小学校(打田)は、第二尋常小学校と改称した。 そののち、明治40年(1908)4月には、打田第二尋常小学校と天王分教場が廃され、第一尋常小学校を普賢寺尋常小学校と改称した。別に置いた「打田分教場」は、打田、高船の1.2学年の児童の教育の場にあてられた。 昭和26年(1951)6月1日に打田分教場は打田分校と改称された。 昭和49年(1974)3月30日に打田分校は廃校となり、普賢寺小学校に統合された。 その後校舎は、昭和53年4月から町立郷土民俗館になったが、老朽化のため平成3年(1991)3月に取り壊した。
古墳・遺跡・石碑・跡
打田小学校分校跡
打田小学校分校跡
明治22年(1889)の町村制実施に伴い、水取小学校、継善校(天王)、打田小学校(明治7年開校)の三校を合併し、普賢寺小学校とした。そして、継善校、打田小学校は、その分校となった。明治25年には、普賢寺第一尋常小学校(水取)、普賢寺第二尋常小学校(天王)、普賢寺第三尋常小学校(打田)としてふたたび三校の小学校が設立された。明治28年3月には、第二尋常小学校は、第一尋常小学校天王分教場となり、第三尋常小学校(打田)は、第二尋常小学校と改称した。 そののち、明治40年(1908)4月には、打田第二尋常小学校と天王分教場が廃され、第一尋常小学校を普賢寺尋常小学校と改称した。別に置いた「打田分教場」は、打田、高船の1.2学年の児童の教育の場にあてられた。 昭和26年(1951)6月1日に打田分教場は打田分校と改称された。 昭和49年(1974)3月30日に打田分校は廃校となり、普賢寺小学校に統合された。 その後校舎は、昭和53年4月から町立郷土民俗館になったが、老朽化のため平成3年(1991)3月に取り壊した。