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古墳・遺跡・石碑・跡

水取小学校址

明治6年(1873)10月8日、多々羅・上(現在の普賢寺)・水取・天王の4か村の共同で水取小学校は開校した。 明治10年10月1日、天王は単独で継善小学校を開校させ、分離した。 明治22年(1889)4月に普賢寺尋常小学校、明治二十四年五月には普賢寺第一尋常小学校に校名は変わったが、明治41年(1908)4月1日再び普賢寺尋常小学校となり、同年12月、現在の普賢寺小学校地(水取門田八番地)に移るまで、35年間続いた学校である。 明治26年に伊東誠太郎(第1回衆議院議員伊東熊夫の長男)がシカゴ・コロンブス博覧会に父の会社から派遣されたおりに持ち帰ったヌマスギ(中国名「落羽松」・長い間メタセコイヤと混同されていた)も、当初はここに植えられていたものが移植されたのである。

所在地

0京都府京田辺市水取地蔵講

Mizutori elementary school Monument

明治6年(1873)10月8日、多々羅・上(現在の普賢寺)・水取・天王の4か村の共同で水取小学校は開校した。 明治10年10月1日、天王は単独で継善小学校を開校させ、分離した。 明治22年(1889)4月に普賢寺尋常小学校、明治二十四年五月には普賢寺第一尋常小学校に校名は変わったが、明治41年(1908)4月1日再び普賢寺尋常小学校となり、同年12月、現在の普賢寺小学校地(水取門田八番地)に移るまで、35年間続いた学校である。 明治26年に伊東誠太郎(第1回衆議院議員伊東熊夫の長男)がシカゴ・コロンブス博覧会に父の会社から派遣されたおりに持ち帰ったヌマスギ(中国名「落羽松」・長い間メタセコイヤと混同されていた)も、当初はここに植えられていたものが移植されたのである。

Location

0京都府京田辺市水取地蔵講

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