かつては広大な敷地を持った寺院であったが、明治8年(1875)に廃寺となり、山本の寿宝寺に合併された。その際に寺の記録類を焼却したため由緒等は不明である。現在は寿宝寺にある聖徳太子立像は蓮華寺の本尊だったという。また一部のものは、同じ飯岡の阿弥陀寺に移された。 鎌倉時代末期後醍醐天皇が笠置山から有王(井手町田村神田)に逃れるときに一時ここに立ち寄ったとの伝えがあるが、詳しくはわからない。 寛永14年(1637)、袋中上人がこの地を訪れたときのことが上人の絵詞伝に見え、「…麓の人かたりけるは、往昔は精舎ありて殿堂いらかをならべしが いまは かく荒涼の地となれりといいければ…」とあり、当時すでにかなり荒れていたことがわかる。 飯岡西原にある袋中上人ゆかりの西方寺に蓮華寺から発見されたと伝える瓦類がある。その中には平城宮でみつかるものと同じ文様の瓦もあり、この寺院の創建が奈良時代にさかのぼる可能性もある。
古墳・遺跡・石碑・跡
蓮華寺跡
Renge temple Monument
かつては広大な敷地を持った寺院であったが、明治8年(1875)に廃寺となり、山本の寿宝寺に合併された。その際に寺の記録類を焼却したため由緒等は不明である。現在は寿宝寺にある聖徳太子立像は蓮華寺の本尊だったという。また一部のものは、同じ飯岡の阿弥陀寺に移された。 鎌倉時代末期後醍醐天皇が笠置山から有王(井手町田村神田)に逃れるときに一時ここに立ち寄ったとの伝えがあるが、詳しくはわからない。 寛永14年(1637)、袋中上人がこの地を訪れたときのことが上人の絵詞伝に見え、「…麓の人かたりけるは、往昔は精舎ありて殿堂いらかをならべしが いまは かく荒涼の地となれりといいければ…」とあり、当時すでにかなり荒れていたことがわかる。 飯岡西原にある袋中上人ゆかりの西方寺に蓮華寺から発見されたと伝える瓦類がある。その中には平城宮でみつかるものと同じ文様の瓦もあり、この寺院の創建が奈良時代にさかのぼる可能性もある。