モデルコース

古代浪漫・隼人の旅

名称

古代浪漫・隼人の旅

距離

3.97

時間

3時間30分

毎年10月14日に披露される「大住隼人舞」の舞台を巡ります。宮廷で舞った隼人たちの姿を思い浮かべながら、古代浪漫に浸りましょう。


モデルコース スタート!
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来迎寺

永禄8(1565)年、道誉上人により開山されたと伝えられている。その後、法誉上人が寺を中興。本堂は延宝7(1679)年に大阪平野町の井上庄三郎氏の寄進によるものであり、平成9(1997)年に改装された、寄棟造(よせむねづくり)。ご本尊は鎌倉中期の作、木彫りの阿弥陀如来坐像。また昔から雨乞祈願の信仰があるという「くり伽羅」不動尊や、ニ五菩薩像、千体仏、脇侍観音勢至像も安置されている。境内には、本堂のほかに観音堂、地蔵堂、鐘楼、庫裡がある。

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天津神社

天禄年間(970〜972年)の創祀と伝えられているが、詳しいことはわかっていない。もとは、若宮社また若宮八幡ともいわれていた。元和3(1617)年に社殿を修造したという棟札が残っており、それ以前の創祀であることがわかる。本殿は様式からすると江戸時代末期の一間社流造(いっけんしゃながれづくり)。桧皮葺(ひわだぶき)の屋根は小屋組みがほとんどなく、平らな姿になっているのが特徴的である。

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澤井家住宅

戦国時代に近江の国佐々木六角氏の13代当主佐々木義賢の家臣であったが、主君佐々木氏が織田信長に敗れたあと、この大住の地に帰農し、享保17年(1732年)から曇華院所領地の代官を務めた家柄である。 入母屋造(いりもやづくり)で茅葺(かやぶき)をL字型に組み合わせた屋根で、一般の農家とは異なる役宅風の住宅である。重要文化財。 平成19(2007)年解体修理完成。平成16年の台風23号で、倒木被害に遭った天橋立の松材を、大梁など各所に19本使用している。澤井家を普請した大工棟梁が、八幡市の“流れ橋”の近くに享保19(1734)年に「伊佐家」の屋敷を普請している。

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大住車塚古墳

5世紀初期(古墳時代中期)につくられた前方後方墳、智光寺山古墳(ちこんじやまこふん)とも呼ばれている。全長66メートル・前方部は幅18メートル・同高さ1.5メートル、後方部は一辺の長さ36メートル・同高さ4.5メートル。古墳の周りには長方形の周濠(しゅうごう)の存在が考えられ、棺が納められていた主体部は竪穴式石室か粘土槨であったと推測される。昭和49(1974)年に国の史跡に指定された。西側に並ぶ大住南塚古墳も同じ形・同じ大きさで、周濠をもつ前方後方墳が二基並ぶという、全国でも珍しい例である。

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月読神社

月読尊(つきよみのみこと)、伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)、伊邪那美尊(いざなみのみこと)を祀る延喜式内社で、大社に位置づけられていた。中世にはたびたび兵乱、兵火を受けて、社殿の焼失と再興を繰り返した歴史があり、鎌倉時代初めに、源頼朝から神馬の献上があったとも伝えられ、明治維新の折には、鳥羽伏見の戦いを避けるため、石清水八幡宮が一時遷座され、ご神宝が薬師堂に安置された。現在の本殿は、東に面する一間社春日造、銅板葺(もとは桧皮葺:ひわだぶき)の建物である。明治26年(1893年)に名古屋の伊藤平左衛門により設計された。本殿を囲む瑞垣の正面に、鳥居を配置する珍しい構造が見られる。この春日造は奈良の春日大社本殿の形式で、この様式は、奈良を中心に京都府南部、大阪府、和歌山県北部などに広く分布する。本神社が位置する大住地域の多くは、平安時代末期から室町時代末ごろまで奈良興福寺の荘園であった。神宮寺として、宝生山福養寺が明治の初めごろまで存在し、奥ノ坊、新坊、中ノ坊、西ノ坊、北ノ坊、東ノ坊の六坊が備わっていたが、すべて廃寺となっている。往事の社域は、大住小学校の北側あたりに北ノ坊の旧跡が調査で確認されており、かなり広大な社であったことがうかがえる。 毎年10月14日の宵宮には大住隼人舞(市指定文化財)が奉納される。

ゴール!

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