モデルコース

同志社大学と普賢寺の郷

名称

同志社大学と普賢寺の郷

距離

7.88

時間

5時間30分

多くの学生が通う同志社大学を抜けると、キャンパスの雰囲気とは一転、普賢寺地域の昔ながらののどかな風景が広がります。観音寺では国宝「十一面観音立像」を見ることができ、その姿に圧倒されます。


モデルコース スタート!
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天神山遺跡

普賢寺谷入口の北側、標高80メートルの丘陵地の南北90m、東西60mの平坦地に、弥生時代後期の集落跡が残されている。水際での生活から、川に沿って山を開き集落を形成していったといわれ、20軒以上の竪穴住居跡が発見されている。また、住居形態の変化と合わせるように利器の素材も石から金属へと変わっていったことから、弥生時代から古墳時代―大和政権の確立―への社会の変化をうかがい知ることもできる。南山城地域における高地性集落の代表例として注目を集め、現在は同志社校地内に史跡公園として整備・保存・展示している。

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筒城宮伝承地

同志社大学京田辺キャンパス内に「筒城宮址の碑」がある。1960年、遷都1450年を記念して、組織された「筒城宮跡顕彰会」により建立されたものである。 この辺り(興戸・多々羅・普賢寺など)は、第26代天皇、継体天皇の筒城宮があったとされる場所である。 『日本書紀』によると、継体天皇は樟葉宮にて即位した後、511年10月に皇居を筒城宮に遷し、7年間この地で過ごしたという。2011年は、筒城宮がおかれてから1500年を迎える。継体天皇は、応神天皇5世の孫で、近江国高嶋郷三尾野(滋賀県高島市)で誕生。幼少の頃に父が亡くなり、母の故郷である越前三国(福井県丸岡町高田高向へ移り住む。しかし、当時の武烈天皇に後継者がなかったため、507年、武烈天皇の姉、手白髪皇女を皇后として、樟葉宮(枚方市樟葉)にて58歳で即位。5年後の511年10月、皇居を筒城宮に遷し、7年間この地で過ごした。その後、弟国宮(乙訓)へ移り、その後ようやく大和に入った。晩年、九州で磐井の乱(527年)があり平定に苦心したが、後継を安閑天皇に禅譲し、531年、その即位と同時に崩御した。

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同志社大学歴史資料館

同志社大学京田辺キャンパスの西方に位置する観音寺は、国宝・十一面観音立像を本尊とする古刹で、鎌倉時代には公家の代表である五摂家の一つで、今出川に別邸があった近衛家の基礎を築いた近衛基通がこのあたりに移り住んだと伝えられている。またキャンパスの南の谷には「南山城の国一揆」と関わった有力者のものと考えられる館跡郡があり、南山城でもっとも繁栄した場所であったことが伺える。  キャンパス内には、弥生時代から室町時代までこのような歴史を感じられる遺跡を保存、出土品の展示をしており(同志社大学歴史資料館・入場無料)、実際の授業にも活用され、一般にも公開されている。

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大御堂観音寺

天武天皇の勅願により義淵僧正が創建した。その後、聖武天皇の御願により良弁僧正が伽藍を増築し、息長山普賢教法寺と号し、十一面観音立像を安置したといわれている。 法相・三論・華厳の三宗を兼ね、七堂伽藍は壮麗を極めて「筒城の大寺」と呼ばれた大寺院であったと伝えられている。 幾度となく火災に見舞われ、永享9(1437)年の火事では、諸堂13、僧坊20余りを数えた建物のほとんどが失われ、大御堂だけが再建され現在に至っている。 現在は、本堂と庭園が周囲の里山に調和し、美しい姿を見せており、春には参道の桜並木や一面に広がる菜の花が、秋には紅葉がひときわ目を引く。十一面観音立像 天平仏(奈良時代中期)を代表する仏像で、昭和28年国宝指定。天平16(744)年良弁僧正(ろうべんしょうじょう)開基時の仏像。 一木式木心乾漆造(いちぼくしきもくしんかんしつづくり)、漆箔(しっぱく)(下地の上に漆を塗り金箔で表面を加工)仕上げ。 立像は度重なる修理によって形を変えていた部分もあったが、昭和期の高度な補修技術により現状の姿に整えられた。本体では、頭上面中の七面、右耳朶(じだ)、両手の指(右第五指を除く)、本体以外では天衣や持物などが後補されたもの。当初の蓮肉と敷茄子をそのまま使用し、そこに蓮弁と反花(かえりばな)、八稜形の框(かまち)を付け足した六重の蓮華座に、静かに安置されている。 像高:172.7センチメートル 重量:66.0キログラム。度重なる火災により、現存しているのは本堂、庫裡、鎮守(ちんじゅ)の地祇(ちぎ)神社だけである。本堂は昭和28(1953)年3月に再建された。単層で入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺(ほんかわらぶき)で南に面している。境内の西方、丘陵上には塔ノ跡と称されるところがあり、奈良時代末期から平安初期頃の作となる布目瓦(ぬのめがわら)が散在している。またその中央には大きな石が置かれているが、おそらく付近一帯に建てられていた堂塔の礎石の一部だと思われる。本堂の前には松香石(しょうこうせき)製の層塔残闕(ざんけつ)があり、様式からすると平安後期の作であるという。

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普賢寺ふれあいの駅

京田辺市の特産品であるお茶の手もみ教室や、四季を通じたイベントなども開催しています。 毎日、お茶の無料サービスも行っていますので、是非お越しください。普賢寺ふれあいの駅は、京都府南部の街・京田辺市で一番盛大な朝市です。又、月2回(第1・3土曜)は、アルプラザ京田辺店にも出張し、販売しております。 ぜひお近くにお越しの際は、お立ち寄り下さい。

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新宮社

この地は欽明天皇の御代、わが国に来朝した百済国人爾利久牟(にりくむ)王の住居したところといわれる。この人は鉄工の業を伝えた人で朝廷より多々羅の姓を下賜された。当社はその子孫のものが祖神と仰ぐ百済国余璋王を祭神として祀った氏神社(うじがみしゃ)であって、当時帰化人がこの地に多く住んでいたことが察せられる。いまは素盞鳴命を祭神としているが、朱智神社との関係であろうか、式外社ではあるが由緒はすこぶる古い。今はもとの鎮座地をあきらかにしないが、一説に多々羅田中山にあり、一に田中山宮と称した。現在は朱智神社の境外末社となっている。 

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山崎神社

額田大中日子命は応神天皇の皇子もとの鎮座地は今の場所より西南約55メートルの所にあったものを宝亀年間770-780年)に現在地へ移された。  一説によると継体天皇第8皇子・菟皇子を祭神とし、明治初期までは八王子社とも皇子神社ともいわれていた。  古墳の上に建立されていることから、古墳を神格化したことがわかる。縄文中期の石棒と異形石器をご神体としている。 山崎1号墳 山崎公民館付近 山崎2号墳 (山崎神社)継体天皇第8皇子・菟皇子の墓 山崎3号墳 権現塚 継体天皇御陵との伝承あり

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