名称 |
飯岡丘陵で古墳三昧 |
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距離 |
5.82 |
時間 |
3時間30分 |
近鉄三山木駅
寿宝寺
慶雲元(704)年、文武天皇の時代に創建されたと伝えられる。古くは「山本の大寺」と称せられ、七堂伽藍の備わった大きな寺であったが、度重なる木津川の氾濫により、享保17(1732)年、現在の小高い地に移転。明治維新に際し近隣の寺々を合併し、現在に至る。平成9(1997)年には平成の大造営を行い、206年ぶりの改築となった。重要文化財である十一面千手千眼観音立像を有する。 この寺の東側、今は桜と紅葉の公園になっているが、以前は鶴沢の池があった。昔は鶴の飛来があったともいわれ、また、近くの飯岡山と共に、仲秋の名月の名所でもあった。十一面千手千眼観音立像 像高180センチメートル、一木造り。平安時代後期に作られたもので、藤原時代中期の様式をそなえた端正典雅な立像。衣紋や面相の表現が藤原時代の特色を示している。左右20の大脇手の前に、小脇手が扇状に配されている。目・眉・ひげに墨、口に朱が塗られる以外は檜の白木で造られており、清浄を喜ぶ神の御心にかなった仏として、神仏習合の先駆的な役割を担ったと考えられる。大きく造った四十手には、日輪、月輪、鏡、矢、雲、骨、剣など40の物を持つ。その他は掌を広げたように何層にも重なっており、すべての掌に眼が描かれ、千手千眼観音を表している。中央には六本の手があり、二本は中央で合掌、二本は中央下で定印して宝鉢をのせ、残りの二本は右手に錫杖、左手に戟を持っている。柳谷(乙訓郡)の観音と同木といわれ、これに因んで眼病平癒祈願に霊験があるといわれる。この十一面千手千眼観音立像は、大阪河内の「藤井寺」と奈良「唐招提寺」の観音と共に、実際に千本の手を持つ観音として三大傑作のひとつである。
山本駅跡
大宝律令が成立すると、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の7つの官通が整備され主要街道には駅を設置、駅馬・伝馬を置くことを定めている。 山本駅は、和銅4(711)年に、古代山陰道と近江へ通じる交通の要所として設置された畿内の「駅」の一つである。『続日本記』には「山背国綴喜郡山本駅」と記され、平城京と太宰府を結ぶ山陽道の宿所として、また淀を経て丹波路へとつづく山陰道の要所として設けられたことがわかる。「駅」には官吏の往来のための駅舎があって、駅長や駅馬、駅子が置かれ旅や通信の賑わいを見せていたといわれる。
飯岡横穴
飯岡丘陵の南東斜面に位置し、かつては2基あったという。 花崗岩の地山をくりぬいて作られている点に特徴がある。 昭和53(1978)年の発掘調査で、古墳内部の床面から古墳時代後期の須恵器(すえき)がみつかったが、平安時代に再利用されたこと、室町時代に内部が荒らされていたことなどがわかった。そのため、作られた当時の状態は不明である。 松井・薪などの横穴群とともに南山城の古墳時代後期の実態を考えるうえで貴重な一例である。
飯岡の渡し場跡
碑隠 昭和四十九年三月建立 田辺町文化財保護委員会 玉水橋下流、飯岡の入口付近の木津川べりに千貫岩という大きな岩が露出している。ここから対岸の玉水に渡った。この渡し場は、月の名所でも有名である。玉水橋から堤防を北に入っていくと豊田翁の碑に隣接してある。
咋岡神社(飯岡)
建築年代など不詳。記録によれば、中世に天満宮と称した時期もあったが、明治6(1873)年村社となり、明治10(1877)年に延喜式内咋岡神社と決定、今の社名にあらためたという。境内の巨木・スダジイは、平成3(1991)年に「京都の自然200選」に指定された。 萬葉歌碑 「春草を馬咋山ゆ越え来なる 雁の使は宿り過ぐなり」 柿本人麻呂 訳)春草を馬が食う 馬咋山を通って 越えて来るらしい 雁の使いは 何の便りも無く 旅の宿りを過ぎていくことだ
トヅカ古墳
円墳 直径22m、高さ3m 墳頂部には、竪穴式石室に使われていた石材が散乱、明治7年発掘の際、銅鏡3面、刀剣、馬具、管玉などが出土している。(現在京都国立博物館に保管)なお、墳上には、「神魂丘旧蹟」の石標がたつ。古墳の現況は竹藪になっている。
ゴロゴロ山古墳
古墳の別名を、茶臼塚、釈迦山古墳とも呼ばれている。 飯岡丘陵のほぼ中央、頂上近くに位置する古墳時代中期のもので、南山城地方を代表する、大きな円墳(現在、前方後円墳とする説もある)である。すでに盗掘にあって、遺物は何も残っていないと伝える。 伝承では、継体天皇の椀子王の塚というが確証はない。継体天皇の筒城宮に近いところから伝説になったものと思われる。 古墳の直径は60m、高さは9m。墳丘頂部は直径20mの平坦地になっている。葺石の存在もあり、北東部には濠がめぐっていた跡がある。
穴山梅雪の墓
飯岡区の共同墓地にある五輪石塔の墓は、徳川家康の武将であった穴山梅雪のものである。梅雪は、以前は武田家の武将であり、母に武田信玄の姉の南松院、妻に武田信玄の三女・見性院妙顕をもつ。 家康とともに泉州堺にいた梅雪は、本能寺の変の知らせを受けると、一行のしんがりをつとめ、一日遅れで、家康と同じ道筋で帰城しようとした。しかし、草内で一揆に巻き込まれた、または明智光秀に家康を撃ち取るよう命じられた土民たちが誤って撃ったなど諸説ある。(梅雪の従者が普賢寺谷で道案内人を殺したことから、土民により殺されたとの説もある。)悲運の武将として、飯岡の村人がこの地に手厚く葬ったという。
飯岡車塚古墳
前方後円墳 長さ81m、後円部の直径60m、前方部の幅は45m、高さ4.5m、竪穴式石室で明治35(1902)年発掘の際に石釧、車輪石、鍬形石、勾玉、管玉など、多くの玉石製品が出土した。古墳の表面は葺石(ふきいし)でおおわれ、周りは埴輪(はにわ)で囲まれている。埴輪のなかには楕円筒埴輪があることが、昭和51(1976)年の発掘調査でわかった。石室の大きさから4世紀後半とされる。現在は前方部は茶畑となり、後円部には「上殖葉王古墳(かみえばのみこ)」と記した石標が立つ。
咋岡神社(草内)
本殿は春日造。春日造の形式は、中世に奈良興福寺の領地であった場合が多い。 本殿は正面に軒唐破風(のきからはふ)をつけ、各所に蟇股(かえるまた)や虹梁(こうりょう)絵様を配して配色するなど装飾が多く、その細部様式からすると、江戸時代中期の建立と思われ、京都府の登録文化財に指定されている。また、境内には江戸時代初期に建てられたと思われる末社若宮八幡宮がある。 境内裏手にある奥深い林は、山城国一揆の舞台となった草路城跡で、土塁や堀も残っている。府の「文化財環境保全地区」に指定されている。
法泉寺
創建開基は不明。本尊十一面観音が草むらから現れたため、あたりを草内と呼ぶようになったと伝えられている。また、天長年間(824〜833年)の干ばつの際、この本尊に祈願したところ、清泉が湧き出したので法泉寺と号したという。このため雨乞い祈願の農耕守護仏として今なお信仰されている。本堂は永禄2(1559)年に戦火を浴び、元禄12(1699)年に再建された。その後、昭和34(1959)年にも再建され現在に至る。重要文化財・十三重石塔や室町期様式の枯山水を復元した庭園、三宝荒神玉石塔も有名。十三重石塔 材質は花崗岩。高さ約6m、笠と軸部を一石で彫り、十三重に重ねるという様式です。 各重の笠の軒付が厚く、力強く反り返っている姿は、鎌倉時代中期らしい剛毅さと華やかさが感じられます。